三重ブログ

武士はつらいよ… ある桑名藩士の涙ぐましい仕官活動

社会状況の変化への対応は、いつの時代も大変です。

今から400年以上前、徳川家康は大坂城を攻め落とし、豊臣家は滅びました。このとき、戦場からは、何万人もの敗残兵が逃げ出しました。
大坂の落人については、残党狩りから逃げ延びたとしても、さらなる追及を恐れて辺地に隠れ潜んでいた、というようなイメージがあります。

ところが、近年の研究で、かなりの数の落人が大名家への仕官をかなえ、武家社会を堂々と生き抜いていたことが明らかになっています。
今回ご紹介する、桑名藩に召し抱えられた高松久重という人物も、その1人でした。

 

落人が桑名藩士になるまで

高松久重は、讃岐国(現在の香川県)の出身といわれ、大坂の役に豊臣方として参加します。冬の陣では、徳川方の佐竹義宣隊に果敢に攻め込み、部隊長の木村重成から感状を賜っています。

しかし、大坂落城後、久重は落人となり、職を失います。
久重は、落人仲間の助力を仰ぎ、大名家へ積極的に働きかけ、松江藩を振り出しに、御所藩、宮津藩、姫路藩を経て、最終的に桑名藩に3000石で仕えます。

 

やっと見つけた安住の地。が、そこでも苦労が待ち受ける

桑名藩に仕官できた久重ですが、苦労は続きます。

久重の役職は老中格であり、藩内では確固たる地位を築いていました。

しかし、58歳という老齢に差し掛かったときに、わが子と家のことが心配になってきました。
そのころ(1640年代)の日本は、泰平の世に入っており、武士の働き口である戦場はなくなり、新たに戦功を挙げることは難しい状況となっていました。

そこで、久重は、家の存続と子孫の処遇を思い、大坂の役での戦功を披露し、藩主から評価してもらうことを考えます。合戦から30年も過ぎているにもかかわらず、にです。加えて、戦功認定の厳格な審査に耐えるには、確かな人物による証拠が必要でした。

 

30年前の敵が協力者

こうした困難な状況下で久重は、なんと、当時敵として戦った、佐竹方の武将 戸村義国へ接触を図ります。義国は、大坂の役の戦功で、徳川秀忠から褒美をもらったことがありました。両者は、何度か書状を交わし、記憶の限りでの戦の推移などについて情報交換をします。
「甲冑(かっちゅう)が何色であったか」「采配(※)を持っていたのは左手か、それとも鎧(よろい)に装着していたのか」など、久重は、義国に細かく尋ねます。やり取りの途中、久重の使者の無礼な振る舞いなどがありましたが、義国は、労をいとわず、応じてくれたのでした。

久重の努力が実を結び、子孫は、桑名藩で代々番頭(大名警護の長)を務めることになります。

 

久重は、落人仲間に助けてもらうだけでなく、仲間の仕官先の世話もしています。
落人たちは、血縁関係にもなく、わずかな期間をともに過ごした間柄にすぎません。それなのに、終戦後も連絡を取り合い、仕官にあたって互いに協力を惜しまなかったのは、戦場で過酷な体験を共有したことにあるのでしょう。

 

※「采配」とは、戦場で大将が手に持ち、部隊を指揮するために振った道具をいいます。一般的なものとしては、厚紙を細長く切って作った総(ふさ)を、木や竹の柄に付けたものがあります。