三重ブログ

女武将:富田信高の妻。三重県の関ヶ原・安濃津城攻防で城主(夫)を救う

津市の中心部に位置する津城跡は「お城公園」として整備され、現在は市民に親しまれています。

この津城の、戦国期の呼称は安濃津城。
関ヶ原の戦いの前哨戦 安濃津城攻防戦では東軍の拠点となりました。

城に押し寄せた西軍の兵は3万人とも言われ、激戦が繰り広げられたことが想像できます。
この戦いの中で現在も語り草となっている人物が、安濃津城主:富田信高の妻です。

正確な名前も残っていませんが、女性ながら激戦に単騎で打って出て、ピンチになっている夫を救ったといいます。

早速、どんな活躍をした人物なのか見ていきましょう。

 

東軍の防衛拠点 安濃津城

安濃津城主・富田信高の父は豊臣秀吉にその武勇を認められ名馬を拝領したことで知られる富田一白。
その父が、関ヶ原の合戦の前年に病没し、信高は5万石の領地を継承します。そして、城主になって間もないタイミングで安濃津城攻防戦がおこります。

信高が東軍に参加した理由は、個人的な感情にあるようです。
「秀吉に気に入られていた父が、石田三成等の文官によって遠ざけられた」と思っていたようで、官僚が中心に成立している石田軍に良い印象を持っていませんでした。

 

西軍3万 VS 東軍2千 安濃津城攻防戦

西軍:石田三成 VS 東軍:徳川家康が死闘を広げた関ヶ原の戦いからさかのぼること約20日。

1600年8月23日、安濃津城を包囲した西軍の攻撃が開始されます。

西軍:毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長曾我部盛親、長束正家ら約3万人
東軍:城主・富田信高、援軍・分部光嘉、古田重勝ら総勢2千人

中国の毛利、四国の長曾我部、九州の鍋島。
西日本の有力大名を中心に構成された3万の大軍です。

信高をはじめとした東軍は奮戦しますが、兵力の差を埋めることができず、徐々に劣勢になっていきます。

 

女武将 富田信高の妻

苦戦が続く状況の中、信高の妻は、夫を助け、敵の有名な武士を打ち取るという活躍をします。

ついに本丸付近にまで攻め込まれた安濃津城を守る東軍。
城主の富田信高自身も、前線で槍を持って戦っていましたが、敵の中で孤立し戻れない事態に。
そんな時、一人の鎧兜が鮮やかな若武者が現れ、瞬く間に敵を五、六人倒しました。

信高が周囲の者に誰であるかを尋ねると、誰も知りません。
それなら、と自ら誰であるか確認しようとすると、若武者のほうから「生きてお目にかかれて嬉しゅうございます」と声をかけてきた。

信高は若武者の顔を見て驚きました。なんとこの若武者は彼の妻だったのです。この日の彼女のめざましい武者働きは、見る者を驚かせたと言います。『武功雑記』には、西軍・毛利秀元の家臣で大剛の士として知られる中川清左衛門を討ち取ったとも記されています。

 

合戦の顛末

毛利の一軍だけで、1日に約300人の死傷者を出したと言われるこの戦。信高やその妻の奮戦もあり、力攻めをすると被害が大きくなると考えた西軍は降伏開城の勧告をします。
信高もこれ以上の戦の継続は無理と判断し、8月25日に勧告を受け入れ降伏。3日間の激しい攻防に幕が下ります。

城は西軍に奪われ、信高は一時的に高野山に向かいます。
しかし、関ヶ原の戦いで東軍が勝利。
後に、妻ともども安濃津城攻防戦での奮戦が認められ、今までの5万石にさらに2万石を加増されることとなりました。

信高やその妻、東海の関ヶ原と呼ばれる「安濃津城攻防戦」を偲ぶ史跡は残っていませんが、お堀を散策しながら、攻め寄せる大軍を想像してみるのもいいかもしれません。