三重ブログ

杉谷善住坊。歴史を変えたかもしれない火縄銃の名手。信長暗殺を図った戦国のアサシン

三重県と滋賀県の県境にある菰野町。
鈴鹿山脈の御在所岳のふもとにある町で名湯:湯の山温泉まで車でわずか10分程度。
この自然が豊かな町に、杉谷城があったとされ、現在も杉谷遺跡(城跡)として残っています。

この杉谷城の戦国時代の城主、杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅうぼう)は当時、勢力拡大のため多方面と戦争を繰り返していた織田信長の暗殺未遂事件を起こしています。

成功していれば歴史が変わっていたかもしれないこの未遂事件。さっそく詳細を見ていきましょう。

 

謎多き杉谷善住坊の出自

善住坊は、現在の三重県菰野町にある杉谷城の城主であったと言われていますが、詳しい経歴はほとんど分かっていません。

鉄砲の名手であり「飛んでいる鳥を一発も外さずに撃ち落とす」程の技術を持っていたこと以外は不明な謎の人物です。
一説には、甲賀五十三家のひとつ、杉谷与藤治の子で甲賀第一の鉄砲の達人だった、と言われています。
また、この甲賀五十三家は近江(滋賀県)南部の有力大名である六角家に仕えていたので、善住坊も六角家の家臣だったとも言われています。

他にも、雑賀衆(鉄砲の傭兵集団)だった、賞金稼ぎであった、猟師であったなど、様々な説がありますが、はっきりしたことはわかっていません。

 

窮地の信長。千草越えで本拠地:岐阜を目指す

元亀元年(1570年)4月。

朝倉氏を攻めるため越前(福井県)へ進軍中だった織田軍。しかし、近江(滋賀県)の浅井氏が突如同盟を破棄し織田軍に攻めかかるそぶりを見せます。

信長は、両軍に挟み撃ちにされる前に京都へ撤退。
1570年5月、体制を立て直すため、当時の本拠地である岐阜へ帰還しようとします。
しかし、琵琶湖の北東部沿岸が敵である浅井氏によって警戒されています。そのため、敵の勢力範囲よりずっと南にある「千草街道」を超えて四日市にでてから岐阜に戻るルートで移動を計画します。

 

信長を火縄銃で狙撃。暗殺を図るが・・

これを待ち受けていたのが、杉谷善住坊。

狙撃に及んだ理由として、信長への個人的な恨み、鉄砲名人としての腕試しなど諸説ありますが、こちらもはっきりしていません。

5月19日。
織田軍が千草街道を通る情報をつかんだ善住坊は、街道沿いの大きな岩が点在する身を隠しやすい地点に潜伏。

善住坊はこの時、確実に信長を仕留めるために「二つ弾」と言われる特殊な狙撃法を用います。
これは、大量の火薬を使用し、筒に二つの弾を込めて発砲する」というもの。
善住坊の必殺を期する気持ちが伝わってきます。

街道であるため細長い縦隊になって進軍してくる織田軍。
信長と善住坊の間が20数メートル距離になったとき、火縄銃で2発を打ち込みます。
しかし、この2つの弾は信長を捉えることができず、かすり傷を負わせたのみ。
信長の暗殺計画は、失敗に終わります。

 

【善住坊のその後】

千種街道の狙撃現場からは、何とか逃走した善住坊。
しかしここから、執拗な信長の犯人探しが始まります。

1570年5月に暗殺未遂事件があってから3年間、なんとか追手から逃れていましたが、信長の家臣の磯野員昌(いそのかずまさ)に捕まってしまいます。

尋問を受けた末、怒り心頭の信長に「鋸挽きの刑」という残忍な刑に処され最後を迎えます。

もしここで信長が倒れていたら・・・空想はつきません。

<史跡>

*杉谷城(杉谷善住坊の居城)

杉谷川の北岸、慈眼寺の北側にある丘陵に築かれています。
堀、曲輪跡など、山城としての遺構は残っています。

所在地
三重県三重郡菰野町杉谷字殿上
国道306号線が杉谷川に架かる橋を渡った直ぐの交差点を西へ。
その奥に見える丘陵の南麓に、登山口の慈眼寺があります。