三重ブログ

後南朝の伝承が残る熊野。知られざる歴史と史跡のご紹介

丸山千枚田と花火で有名な熊野市。世界遺産熊野古道もあり、歴史と自然が共存する町です。

この町は、西北の山間に入っていくと奈良県の上北山村を経由し吉野、また十津川にでることができます。

1336年、足利尊氏の北朝と決裂した後醍醐天皇は吉野に立て籠もり独自の朝廷(南朝)をつくります。
1392年、足利義満の時代にこの、南北の分裂が解消する機会がやってきました。
「北朝と南朝と交互に天皇の位につきましょう」
という条件付きで南朝の後亀山天皇は、京都に帰ります。
しかし、この約束が実行される気配はありません。

これを不満に思った南朝の天皇は、再び吉野へ立て籠もります。
これを後南朝といいます。
後南朝はこの後、北朝(室町幕府)と抗争を続けますが、劣勢に立たされ吉野から奥へ奥へと追いやられていきます。
そして、最後にいき着いたのが、熊野の地でした。

苦難を重ね、後南朝が熊野に行き着くまでのプロセスと熊野にある後南朝の史跡をご紹介します。

後南朝 抵抗の歴史

南北朝の統一後、40年が経とうとしていました。
しかし、北朝が南朝の天皇家に皇位を譲る気配はありません。
約束を破られたことに不満を感じていた後南朝は、伊勢の有力者:北畠満雅と共に北朝に対して兵を起こします。
しかし、北朝の勢力との戦いに敗れ、後南朝の皇族は京都に連れ戻されてしまいます。

北朝(室町幕府)にとっての後南朝勢は「皇位奪回のため武力蜂起をする」厄介な存在でした。しかし、それだけではなく「幕府に不満を持つ勢力」が、後南朝を担ぎ上げて反乱を起こします。
旗印としても利用されていたのです。

ここに、第6第将軍 足利義教が登場します。
この将軍は厄介な後南朝を潰そうと考え、色々な施策を打ちます。
命を奪うことまではしませんでしたが、後南朝の皇族に対して
・出家させる、または家臣にさせる
・財産の没収
を行います。
とうとう皇族ですらなくなり、財産もなくなった後南朝勢力は自力で北朝に対抗する力をなくしてしまいます。

自分たちの力では北朝にほとんど抵抗できなくなっていましたが、「反幕府勢力」からすると、まだまだ利用する価値がありました。
一部の貴族を中心とする反幕府勢力が「後南朝の元皇族」を担ぎ出し天皇暗殺や三種の神器の強奪を実行します。

天皇暗殺は未遂に終わりましたが、三種の神器のひとつを強奪することに成功。しかし、その代償は大きく
事件に関与した後南朝の元皇族はほとんど殺害されてしまいます。

後南朝 熊野へ

天皇暗殺未遂事件より15年が経とうとしていました。
事件後、後南朝の残党はなんとか京都より脱出。
奈良の吉野に戻ろうとしますが、そこにも北朝の手が回っています。
仕方なく、吉野を抜けさらに山間を奥へ。
奈良県北山村から三重県熊野市の辺りにまで進み、ここに拠点を置いたようです。

そして、三重県熊野市紀和町大河内で再び挙兵をします。
しかし、幕府が送り込んできた刺客に後南朝の血を引く者が暗殺されてしまいます。

この後、応仁の乱に後南朝の血を引く者が再登場しますがそれを最後に後南朝は歴史から姿を消します。

後南朝に関する史跡

<後南朝 大河内行宮跡>
・所在地:三重県熊野市紀和町大河内279
後南朝 の自天王・忠義王等が挙兵し仮御所をおいた

<光福寺>
・所在地:三重県熊野市飛鳥町神山202
後南朝最後の王である「尊雅王」が亡くなった場所と伝わる