志摩出身・鳥羽で活躍した海賊大名 九鬼嘉隆。織田信長のお抱え水軍

  1. 伊勢志摩

現役の海女のいる町、鳥羽。
カキ、アワビ、伊勢エビなど海産物が有名な一方で海賊衆のいた歴史のある町でもあります。

戦国時代のピークであった元亀・天正の頃(1570-1592年)。
この町は、鳥羽城を拠点に九鬼氏が統治していました。
九鬼氏も最初は小さな海賊衆のひとつでしたが、嘉隆が織田家の傘下に入ってから大きく飛躍をします。

信長・秀吉に仕え、日本一の水軍としての名誉を得た九鬼嘉隆とその史跡をご紹介します。

志摩の海賊~織田家臣になるまで

織田信長

志摩国には、13地頭と呼ばれた小さな海賊が割拠していました。
嘉隆の九鬼家もその中のひとつです。
嘉隆は、九鬼家の3男として1542年に生まれます。

父が亡くなり兄が家督を継いで10年ほどが経った頃。
周囲の海賊衆とうまくいっていなかった九鬼家は、他の12家から攻撃を受けてしまいます。武力衝突の中で当主である兄が亡くなってしまったため、嘉隆はその子を守りながら城から逃亡します。

その後、桶狭間で勝利した織田軍が伊勢・志摩へ侵攻。
嘉隆は、伊勢・志摩侵攻の責任者の一人である滝川一益の仲介で織田信長に仕えるようになりました。
船上からの鉄砲の連射などの新しい戦術で、伊勢・志摩攻略に嘉隆は大きく貢献し、織田家の中での九鬼家のポジションを築きました。

織田軍VS毛利軍 木津川会戦での活躍

石山本願寺

1576年、織田家は大阪の石山本願寺を包囲、攻撃します。
孤立していた本願寺ですが、中国地方の大国:毛利家が食料援助をするために大阪湾に侵入。ここで織田の水軍と海戦が行われます。

当時最強と言われた村上水軍を核とする毛利水軍600隻に対して、淡輪党を中心とした織田水軍300隻が迎撃します。
結果は、村上水軍の焙烙火矢(ほうろくひや)と言われる手榴弾のような兵器に船を焼かれた織田水軍は惨敗してしまいます。

この後、信長から「燃えない船」の建造を命じられた嘉隆は、鉄甲船6隻を完成させます。
大きさは縦22メートル・横12メートル。
大筒・大鉄砲を装備し、船を鉄で覆ったため焙烙玉・火矢を防ことができました。当時としては空前の巨大さと防御力を持っていたとされています。

1578年6月、再び毛利水軍が本願寺への食料援助のため現れます。これを迎え撃ったのが嘉隆の率いる6隻の鉄甲船です。
敵を引きつけて、大将が乗っている船を大砲・大鉄砲で集中攻撃。毛利水軍600隻を撃退することに成功します。
この功により嘉隆は、志摩を中心に35,000石の領地をもらい大名となりました。

その後(朝鮮の役~関ヶ原合戦)

本能寺の変後、嘉隆は秀吉に仕え日本水軍の総司令として朝鮮出兵に参加します。
しかし、朝鮮軍の激しい抵抗にあい敗北してしまいます。

時を経ぬうちに、秀吉は亡くなり関ヶ原の戦いが起こります。
九鬼家は、どちらが勝利しても家が残せるよう嘉隆は西軍に、息子は東軍に参加します。
結果、東軍が勝利。息子は嘉隆の助命を願い出て許されたのですが、その連絡が届く前に嘉隆は切腹して果てていました。

鳥羽・答志島には、九鬼嘉隆を偲ぶ史跡がいくつも残っています。

史跡

鳥羽城跡

<鳥羽城跡>
・所在地:鳥羽市鳥羽3丁目
1569年に九鬼嘉隆が築城。九鬼水軍の本拠地。
大手門が海側に突出して作られる珍し作りとなっています。
徒歩:鳥羽駅から約10分
車 :伊勢ICから伊勢二見鳥羽ライン経由で約15分

<嘉隆の胴塚・首塚(答志島)>
・所在地:三重県鳥羽市答志町和具地区
答志島にて切腹した嘉隆の胴、首を葬った塚(別々の場所です)
鳥羽マリンターミナルから市営定期船にて約20分
和具港から徒歩約15分

<常安寺>
・所在地:三重県鳥羽市鳥羽2丁目12-3
九鬼氏の菩提寺。
歴代当主の五輪塔墓碑の並ぶ中央に嘉隆の墓碑があります。
電車・徒歩:鳥羽駅(JR・近鉄)から徒歩約15分
車:伊勢自動車道「伊勢IC」から伊勢二見鳥羽ライン経由で約15分

駒田

キャリアベース三重の運営担当。鈴鹿市出身、三重大学卒業、伊勢市在住な、THE・三重っ子。最近は、カメラを持ち、三重の北から南まで走り回っています。趣味は旅行。伊勢市在住だけど隣の鳥羽市の旅館に泊まったりして非日常感を味わうのが好き。

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