株式会社 桔梗屋織居 (ききょうや おりい)
取締役社長 中村 伊英( なかむら よしひで)さん ・61歳
伊賀市は、2004 (平成16)年に、忍者で有名な旧上野市を中心に、伊賀町、島ヶ原村、阿山町、大山田村、青山町の6市町村が合併した古くて新しい街です。発足当時は、10 万人を超えた人口が、昨年、2020年には8万9千人代にまで減少。また、65歳以上の人口も3割以上と、少子高齢化に悩む地方都市の一つです。コロナ禍の影響もあり閉じたままのシャッターが目立つ商店街の中で、工夫を凝らしたお菓子で販路を広げている老舗の和菓子屋さんがあると聞き早速を訪ねてみました。菓匠・桔梗屋織居さんは、伊賀名物の「かた焼き」をはじめとした古くから伝わるお菓子を製造販売していますが、一方で、高齢者が安心して食べられる「おかゆ大福」の開発や、百貨店での販売を主眼としたユニークな創作和菓子の発売元として全国的に知られるようになっています。
伊賀上野城築城とともに創業
ご当主の中村さんによると、創業は、築城の名手である藤堂高虎が城下町を開いた約400年前に遡ると言います。「桔梗屋の屋号に続く織居という名前は、城代家老から賜ったもの」とのことで、同藩の御用商人としていかに重用されていたのかが伺えます。隠居すれば「伊左衛門」を名乗る「襲名」の習わしも残っているそうで、絵に描いたような老舗です。一子相伝の味を習得するために、幼少の頃から厳しい修行を積んだのでは、と、勝手に想像してしまいます。そして、そんな環境で、どうして自由な発想が浮かぶのだろうかと、疑問ばかりが浮びます。
意外な出発点
「就職活動を始めるまで、家業を継ぐ気などまったくありませんでした」と笑いながら話す中村さん。京都で学生生活を送りながらもバイト先はお菓子屋さんだったそうです。卒業間際になって、菓子専門学校に入り、そこでお菓子作りを2年間勉強。その後、伝手を頼って金沢のお菓子屋さんに就職しました。「金沢は、京都、松江と並ぶ和菓子の名産地なので選んだのですが、要員の関係で東京支社に配属が決まりました。本社勤めなら職人見習いの下仕事から始まます。人手のない支社では、なんでもやらねばならず、最初からお菓子作りに携われました。また、材料の仕入れから百貨店での店頭販売の方法まで、商売の流れを学ぶことができたので返ってよかった」。会社勤めは2年間でしたが、和菓子に新風を吹き込む自由な発想は、そうした経験が原点のようです。
暖簾のありがたさ
「若い時は、知らない人にも桔梗屋の息子と知られていたり、”お前も悪よな”、などと時代劇のセリフでからかわれたりと、古くからの暖簾を面倒に感じたことはありました。今は、ありがたいことばりですよ。東京の百貨店でイベント販売するときなど、創業400年の店舗はやはり珍しく、告知広告の中で一際大きく扱ってもらえます」と暖簾の魅力を話してくれました。「変わった新作のお菓子は地元では売れませんが、東京の百貨店なら、伊賀の老舗が作った新作として受け入れてもらえます」。百貨店販売では、箱いっぱいにモンブランの素材を敷き詰めた「御座敷モンブラン」やシュークリームの皮でおはぎを包んだ「おはぎシュー」などがあり、名前もユニークです。
和菓子作りへの情熱
「よく、和菓子作りのおけるコダワリを尋ねられますが、コダワリがないのが私のポリシー」とのこと。「和菓子に限らず、お菓子は材料の配合を変えると味が変わってしまいます。そうすると、あそこの店は味が不安定だと、店にとってリスクも大きいのですが、美味しくなると思ったら迷いなく、どんどんど変えていきます」。試行錯誤を繰り返して初めて新しい味は生まれるもの。「しっちゅう変なものを試作しては、会社の者に引かれ。家族に試食すらも断られることもありますよ」とその苦笑交じりで話す言葉の中に、暖簾を傷つけかねない危険を冒してまでも時代に応じた新しい商品を作り出そうとする中村さんの和菓子作りにかける思いが感じられました。
時代が求めた新しい和菓子
「和菓子は、世代ごとに好まれる味や食感も違います。季節限定であったり、ただ1日だけしか販売いない品だったりするので、品数は多く、バーコードに登録している商品分類で2,000を越えます」と言うから驚きです。「おかゆ大福」は、そうした中でも特に販売対象を明確に定めて作りだされた和菓子です。我が国では、年間3,500人以上の高齢者が食品が原因となった窒息で亡くなっています。中村さんの曽祖父もその一人だったため、「高齢者が安心して楽しめる本物の和菓子を」と、10年がかりで試行錯誤しながら開発したそうです。「こしあんを包む餅は、餅米ではなく、うるち米で作ってあるため、口の中でホロリと崩れて喉を詰まらせことがありません」。もちもちとした食感はありませんが、米の香や、あんこの舌触りが味わえる」と好評を得ている和菓子です。「寝たきりの人に甘味としてゼリー程度しか提供できないと困っていた介護施設が多く、今では350を数える施設でご利用いただいています」。高齢者のご家族から「本物の和菓子の味を楽しめ、とても喜んでいるとのお礼状もいただきました」と中村さんは微笑みながら話してくれました。時代のが求めるこうしたユニークな和菓子を作り出す中村さん。その柔軟な発想は、「和菓子屋だけをやっていては出会わない人との出会いにある」と言います。
毬栗で伊賀を活性化
中村さんは、若い頃から地元のネットワークを大切にしており、商工会議所青年部や青年会議所で活動。その後、NPO中間支援組織を立ち上げ、阪神淡路大震災のボランティア活動を通じて、環境団体や福祉団体、農家、福祉、外国人など多種多様な人たちと知り合いになりました。そんな活動で知り合った農業NPOや福祉団体の人々とともに2016年、「いがぐりプロジェクト」を立ち上げました。伊賀で育てた栗をブランド化して街おこしに役立てようと言うものです。
和菓子の材料となる栗の加工品のほとんどが韓国産です。皮を剥いて砂糖漬けにした缶詰や、生栗をペーストにしたものなどいろいろあります。戦後、国産品の5~10分の1程度と安価な韓国産の栗が流通するようになったために、それまで、あまり一般的でなかった栗を使ったお菓子が、全国的に作られるようになりました。ところが近年、韓国の人件費の上昇のために栗の価格が上昇、採算が合わないとして業者が輸入をやめてしまう。そのため、国内の栗の使用量が増えているのに、流通が減り、価格が上昇する困った状況になってきたのです。「それなら、地元の栗を生産して安定供給できるようにしたら。そうできたら地元産のうう栗することで、商品の差別化を図れるのではないか」と考えたのがきっかけだそうです。一方で、農家でも米以外の産物を探していると聞き、「栗をイガに通じる伊賀の名産品にできないかと」と同プロジェクトに発展しました。
農家で栗を生産、お菓子屋が栗を買取りることで地産地消を安定化させ、さらに福祉施設でお菓子素材の一次加工を行うことで雇用を増やそうというのがこのプロジェクトの狙いです。「最初に植えた栗の木200本から始り、現在では桔梗屋で利用する栗のほぼ賄えるようになっている」とのことです。「今後は、伊賀のお菓子屋さん、喫茶店やレストランで伊賀栗を季節メニューに加えてもらえればと考えています。その次は、伊賀以外のメーカーで使ってもらい、最終的には全国で利用される三重県の新しいブランドに育てたい。そうなれば、伊賀栗の街、伊賀に、栗を買いに来てくれる」と、中村さんの活動は、その幅をますます広げていきそうです。
「人と仕事」シリーズ
人と仕事シリーズでは、三重を愛する人々が、仕事を通じて三重を盛り上げる様子についてお伝えしてまいります。
記事一覧
■人と仕事 Vol.1「世界一小さい工房から世界品質のエールを提供したい」
■人と仕事Vol. 3 目指すは、ブドウ生産者のためのワイナリー