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抗戦か恭順か。無血開城へ至るドラマがあった!桑名城跡
ここは、桑名城跡にある、辰巳櫓跡(たつみやぐらあと)。
当時、ここに立派な三重の櫓があったそうです。1701年の大火で天守を焼失した桑名城では、この櫓を実質的な天守として使っていました。
今から、約150年前の戊辰戦争当初、ここを舞台に藩士たちが必死になって数々のドラマを繰り広げました。
目を閉じて、この場所に立っていると、当時の喧噪が聴こえてくるようです。
桑名藩が大混乱に
時は、明治元年(1868年)1月3日。
開戦の火ぶたが切って落とされた「鳥羽伏見の戦い」は、わずか数日のうちに旧幕府軍が敗れ、元将軍の徳川慶喜は大阪から船で江戸城に逃げました。
この時、大混乱に陥ったのが、留守を任された桑名藩の家臣たち。というのも自分たちの殿様である松平定敬は、徳川慶喜に着いて江戸へ行ったというのだから。
気が付いたら自分たちは賊軍になっていて、錦の御旗をかざした新政府軍の追手がもう、すぐそこまで迫っています。
抗戦か、恭順か。
1月10日、桑名藩の家臣たちは緊急で集合します。ここからわずか半月足らずで、苦渋の決断をしなくてはならなくなりました。
刻一刻と状況が変わる混乱の中で
すでに、津藩は新政府軍側についています。北にある大垣藩は、先に新政府軍に恭順を示して難を逃れました。
桑名藩は、どうするか?
藩主と命運を共にして幕府軍として戦いを続けるか、それとも官軍の新政府軍に従うか、藩の意見は真っ二つ。困り果てた重臣らは、驚いたことにくじ引きで決めようとします。その結果、抗戦に決まったのですが下級藩士らの反発にあい、結局は新たな藩主を立てて恭順と無血開城に落ち着きました。
この時、1月23日。わずか半月足らずの期間に、桑名藩では二転三転して命がけの論争を繰り返したんですね。
後日、新政府軍に城を明け渡す際、ここにあった辰巳櫓は新政府軍に焼き払われて桑名城の落城の証となったそうです。
家臣らは謹慎処分となりますが、この時の判断が後々に功を奏して、桑名藩は存続を許されました。
詳細・アクセス
■web
桑名市公式サイト
■住所
三重県桑名市吉之丸5-1
■アクセス
Googleマップ
公共交通機関でのアクセス
【鉄道】JR・近鉄・養老鉄道「桑名」駅、三岐鉄道北勢線「西桑名」駅から徒歩20分
【車】東名阪自動車道「桑名」ICより15分、伊勢湾岸自動車道「湾岸桑名」ICより10分
辰巳櫓跡にある大砲から、声なき声が聴こえます
辰巳櫓跡には大砲が置かれていますが、その由来などについては謎だということです。
一体、誰がなぜここに大砲を置いたのか?
ただの想像にしか過ぎませんが「戦いたかった」という気持ちを押し殺し、服従した当時の藩士の気持ちを代弁しているように、感じるのです。
いつの時代も思うようにならないことばかり。
だから人生はいいのだ、と言えるには、まだまだ人生の修行が必要でしょうか。